てんきあめ
先刻まで曇っていた空は今は晴れ、午後の太陽がアーカムを優しく照らしている。
立ち並ぶ高層ビルの一つ、とあるアパートの一室に二人の人影が居た。
一人はベッドに横たわる老人、もう一人はその傍らに立つ少女だ。
「そろそろか?」
少女が老人に問うた。
「ああ」
老人が答える。
「そうか」
少女はそう言って目を伏せた。
「結局、お前を置き去りにすることになっちまったな。アル」
許しを請う様に老人は少女に言った。
「何を今更、こうなることは覚悟しておったよ。九郎」
少女は微笑みながら輩に答えた。
「九朔は?」
老人は息子のことを問うた。
「こっちに向かっておるとは連絡は来たが…… 全くあの親不孝者めが」
少女は息子は間に合わぬ事を告げた。
「そうか」
少女のいつもの調子に老人は笑いながら答えた。
「なぁ、楽しかったか?」
少女はさらに問うた。
「子育てに、探偵業にお前との生活。月並みだけど良い人生だったぜ」
老人はこれまでの人生を回顧して断言した。
二人の話は尽きせぬ。二人は夫婦、比翼の鳥、その今生の別れに話が尽きることなど有ろう筈もない。
「そろそろみたいだ」
老人は静かに自らの生の終わりが間近であることを告げた。
「そうか」
少女は素っ気なく答える。
「アル」
今一度、老人は最愛の者の名を呼ぶ。
「何だ?」
少女が問うた。
「ありがとうな」
老人はそう言って優しく微笑む。
「それは妾の台詞だ、莫迦者」
少女も微笑みを浮かべた。
不意に老人は少女の頭を撫でた。ゴツゴツとした大きく、温かい手。
幾たびこの手に撫でられたか少女は数えることも出来ぬ。
微笑みを浮かべたまま、老人は逝った。少女もまた、微笑みを浮かべていた──浮かべていられた。
老人が息を引き取った直後、少女の頬を一筋の涙が走った。
─良かった。
少女は思った。
九郎の最期には微笑みを浮かべていようと決めていた、それを果たすことが出来たのだから。
「うっ、ううっ」
涙は止め処なく二つの瞳より溢れ、嗚咽が漏れる。
「九郎、九郎、九郎、九郎!」
愛しい者の名を何度と無く繰り返し、亡骸に縋って少女は泣いた。
判っていたこと、人の身で得るのは稀な死を越えた存在となった者を再び死すべき定めへと戻したのは彼女自身。
太陽の下で真っ当な人生を送る彼を望んだのも、その傍らにあり続けることを望んだのも彼女自身。
だから彼の死もまた不可避、永久に共にあり続けることを選ばなかった彼女の選択が招いた結果。
魔導書の身でありながら人を愛した彼女の誇り高い結果。
涙は尽きることなく、さめざめと降りしきる。
窓の外では、天気雨が降っていた。