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『かげぼうし』
284 :家族計画SS『かげぼうし』-Prologue :04/09/18 18:01:48 ID:G4CmJ+ON
夏。蝉が鳴き、線路が焼け、陽光が踊る季節。
緑は眩しさの中で木漏れ日を作り、林道を走る子供達に万華鏡のような風景を恵む。
見上げればそこに蒼の清艶さと白の雄大さ。何もかもが美しく在った。
しかし、景色は時と共に色褪せる。
学び舎は虚空。帰る場所は虎穴。その狭間を過ごす、学校の屋上。
そこは特等席だった。いや……隔離所や独房と言った方が適切なのかもしれない。
たった一人世界から孤立したかのような錯覚を味わえる場所。
罪を犯した訳じゃない。生まれた事が罪などと思った事もない。
けれど、いつもこの場所にいる。
そして今日も――――
………
………………
………………………………
285 :家族計画SS『かげぼうし』-1 :04/09/18 18:02:30 ID:G4CmJ+ON「……」
暗闇に光が混ざり、波紋のように広がっていく。
そう感じた瞬間、空気の感触と鼓膜が揺れる実感とが微量に湧いてきた。
「あ……」
聞き覚えのある声が耳に入る。まだ起きたばかりの意識は瞬発力に欠けていて、
物事を把握する速度が遅い。誰の声かも、今自分がどういう状態なのかさえもわかってない。
寝ていたのだろうか?
昔の映像が影灯籠のように映し出されていたような気がする。あれは――――夢?
……わからない。
曖昧な脳内をゆっくりと活性化させながら、ふと目を開け――――同時に自分が
目を瞑っていた事を自覚した。やはり寝ていたようだ。
静かに息を吐く。そしてぼやけた視界を整準させ、網膜に映る像を視神経を通して
後頭葉の視覚中枢に伝達した。
――――見えたのは、空。何処までも深く、それでいて淡い一面の蒼と白。
そして鼻腔をくすぐる芝草の匂い。ここは……そうだ、河原の芝生の上。
末莉を連れて散歩に出たついでに寄ったんだっけ。
「んーっ」
上体を起こす。視線が90度の弧を描いて風景を回す。
そして声のした方に顔を向けると、末莉の姿に照準が合った。
頭には俺の渡した帽子。視線に気付くと、末莉はニッコリと微笑を浮かべた。
286 :家族計画SS『かげぼうし』-2 :04/09/18 18:03:20 ID:G4CmJ+ON「……あー」
今度はハッキリ把握できたその声に間延びした返事をする。と同時に、身体の
全感覚が完全に目を覚ました。寝汗をかいたらしく、背中の辺りが少し冷たい。
帰ったら風呂にでも入るか。二十歳の男が外で昼寝して寝冷えした挙句風邪……なんて
シャレにならんからな。
――――なんて事を考えていた所為でもないだろうが。
突然、少し強めの風が河原に迷い込んできた。
「っ……と」
末莉は慌てて帽子を押さえる。そこまでするほどの強風ではないんだが、
宝物を守る用心さでそれに抗っていた。
どうやら大事に思ってくれているようだ。あげた方としては悪い気はしない。
風が止み、末莉はホッとした顔で俺を見やる。と同時に俺の視線が帽子へ向いてる
事に気付いたらしい。はにかみながら笑い、おずおずと問いかけてきた。
「あの、これ……わたしに似合ってるでしょうか?」
「ん……」
少し言葉を濁す。何故か本心を言うのが気恥ずかしかった。
「あはっ」
末莉はどうやら肯定と受け取ったらしい。帽子を脱いだり被ったり、
まるで玩具を与えられた子供のようにはしゃいでいる。
……ま、いいけど。
287 :家族計画SS『かげぼうし』-3 :04/09/18 18:04:20 ID:G4CmJ+ON「ところで、前から聞きたかったんですけど……この帽子、
いつごろご購入なされたんですか?」
「……」
質問の意図がいまいちわからず、目でそれを伝える。アイコンタクトとか言う奴だ。
「うあっ、すいませんもう聞きませんお許しをっ」
受信相手はガンを飛ばされていると受け取ったらしい。
「いや、全然怒ってないからいちいち謝るな。ちなみに買った訳じゃない。
こういう帽子、普通男は買わないだろ」
「はあ、そういうものなんですか……?」
「……それは貰い物だ。中学時代の先生からの」
「先生から……ですか? であれば、とても大事な物なのでは……」
「いや、いいんだ。もう俺が使う事もないからな」
と言っても、使った事はほとんどないんだが。
「どのような先生だったのですか?」
「んー……そうだな、静かな先生だったよ。中三の時の担任で、現国を教えてた。
50過ぎた女の人で、怒った事は一回も無かったな」
288 :家族計画SS『かげぼうし』-4 :04/09/18 18:05:01 ID:G4CmJ+ON「へえ……」
末莉は興味深げに俺の話を聞いている。そんなに関心を引くような話でも
ないと思うんだがな……。
「ま、俺が出会った中じゃ唯一いい先生だったよ。ちょっと白髪交じりで、目が細くて、
結構痩せてたっけ。いつも笑顔を浮かべてたな」
半分独り言のような感覚で呟きながら、空を仰ぐ。
そうだ……あの日の空もこんな色だった。
「先生は俺が家庭の事情とかで捻くれていくのを心配してくれて……
いつも俺の事を気にかけてくれてたな。その帽子を貰った日も――――」
太陽のある方に目をやる。すぐ傍にあった薄い雲がちょうど間に割って入ろうとしていた。
「今日みたいな、暑い日だった」
「……」
末莉は黙っていた。
それは多分、俺がそうさせてるんだろう。懐古の念に囚われた所為か、
妙にしんみりした雰囲気になってしまった。
「……ま、そんなとこだ」
適当に話を締める。こんな陽気にわざわざ空気を重くする事もあるまい。
289 :家族計画SS『かげぼうし』-5 :04/09/18 18:05:47 ID:G4CmJ+ON「素敵な先生だったんですねー」
「ああ」
躊躇なくそう言える。
「……ちょっとうらやましいです」
「お前の学校にはいないのか? いい先生」
「今の担任の先生は、HRを三回に一回の割合でサボります。
去年の先生は、たまに私を視聴覚室に呼び出して……」
「……職員室じゃないのか?」
「はい。そして私の写真を何枚も取っておられました。
たまに体育着を着て来いとか不可解な事も言われたり」
「……」
おいおい、そこまで病んでるのか現在の教育機関は。
「……一応確認しとくけど、変な事はされてないだろうな?」
「あ、それは大丈夫です。ただその先生は去年限りで退職されました」
世の中に悪は栄えているものの、淘汰する動きが消えた訳でもないらしい。
何となくホッとする。
290 :家族計画SS『かげぼうし』-6 :04/09/18 18:06:38 ID:G4CmJ+ON「さてと、それじゃそろそろ帰るか。ちょっと長居し過ぎたな……原因は俺だけど」
「司さんの寝顔、可愛かったです」
「……」
「うあっすいません! そんな怖い目で見ないでください〜」
今度はれっきとした眼力の行使で黙らせる。
しかし我ながら無防備だったな……引き締めんと。
「……」
……けど、なんとなくこのままでいい気もした。
少し前までは人間不信とまでは言わないが、他人、或いは形式的には家族と呼ばれる
人間でさえ、俺にとっては忌避すべき存在……嫌いなものだった。
けど、今は……。
「……違うのですね?」
「はい、多分」
……?
思わず答えたその言葉にも、投げかけられた言葉にも疑問が生じる。
末莉、お前……そう紡ごうとした言葉は音にはならない。
空では雲が太陽を覆っており、麦藁帽子が影に染まっている。
俺はその帽子を被った『彼女』をただ呆然と見つめていた。
「そうですか。なによりです」
彼女は優しく微笑んだ――――いつもそうであったように。
291 :家族計画SS『かげぼうし』-7 :04/09/18 18:09:08 ID:YIs/4DHU「では、ごきげんよう」
え……?
刹那。
雲に覆われていた太陽が姿を現す。
遮られた光が眩しさと共に視界の輪郭を一瞬だけ奪った。
「……司さん?」
その声は、末莉のそれだった。
「……」
不可思議なものを見るように、俺は目の前の少女をまじまじと見つめる。
何もおかしなところはない。何も……。
「きゃーんっ!? そ、そんなっ、そんなにわたしに寝顔を見られた事が
屈辱だったのでしょうかっ!? 申し訳ございませーんっ!」
小娘は何故か取り乱していた。
「おい、何を訳のわからない事言ってる」
「し、しからずんばっ、その……」
然らずんばの用法が間違ってるぞと指摘しようとした瞬間。
ス――――
目の下に熱い感触が伸びていった。
292 :家族計画SS『かげぼうし』-8 :04/09/18 18:10:16 ID:YIs/4DHU「え……?」
これは……涙?
慌てて頬に手をやる。確かに一滴、涙が頬を伝った跡が確認できた。
どうして――――欠伸をした訳でもないし、涙腺を刺激するような出来事は
何一つないのに。
「……」
もしかして、過去の事を思い出した事でセンチメンタルに?
……馬鹿な。そこまで感傷的なものでもないというのに。
きっと無意識の内に欠伸が出てたんだろう。そう思う事にした。
ただ、思い返した過去の一ページが心に残ったまま、妙な感情に囚われていたのは
事実だった。既視感にも似た記憶の連鎖。
もし――――あの日の未来が今日だとしたら。
「……本当だったって事か」
「ふえ?」
「ああ、いや。何でもない。ちょっと欠伸が出ただけだ」
「欠伸……ですか」
末莉はホッとしたような、何か納得できないような複雑な顔でそう呟いた。
293 :家族計画SS『かげぼうし』-9 :04/09/18 18:11:12 ID:YIs/4DHU「じゃ、今度こそ帰るぞ」
「あ、待ってくださーいっ」
先生があの日言った事。それは俺にとって半信半疑だった。
そんな簡単にいく筈はないと。
実際、俺は苦労した。毎日が苦闘の連続で息つく暇も無い。
でも昔とは違う。少なくとも空虚ではない。そう思える事が何よりも違う。
そう導いてくれたのは、もしかしたら――――
「ありがとう……ございました」
「はい?」
「いや、お前に言った訳じゃない。気にするな」
「でも、わたしの方を見て」
「ま……な」
「……?」
訝しげな顔をしながらも歩き出す末莉に続きながら、俺は少しだけ大きく息を吐いた。
今度母校に顔を出してみるか。
先生がまだいるかどうか定かじゃないが、連絡ぐらいは取れるだろう。
やっぱり礼は直に言わないとな。
近況を報告した時、先生はどういう顔をするだろうか。
落胆? 叱咤激励?
いや、きっと微笑んでくれる。そんな気がする。
いつもそうだったから。
……そんな事を考えながら、家路に着いた。
294 :家族計画SS『かげぼうし』-10 :04/09/18 18:12:39 ID:YIs/4DHU
それから暫く経ったある日――――
俺は先生の訃報を知った。
295 :家族計画SS『かげぼうし』-Epilogue :04/09/18 18:14:29 ID:YIs/4DHU ………………………………
………………
………
一学期の終業式が終わり、HRも終わり、子供達は皆開放感と期待感で胸を躍らせる。
教室ではこれから訪れる夏休みのスケジュールを肴に楽しく談笑してるだろう。
でも俺は、いつものようにここに――――屋上にいる。
当然だ。息子の通知表に一喜一憂する親も、
一緒に遊ぶ計画を立てる友人も……俺にはいないのだから。
今日はいつもと同じ一日。だから俺はここにいる。
「……あらあら」
背後からのその声に、突然であるにも拘らず俺は微塵も驚きを覚えなかった。
先生の声だったからだ。
「こんな暑い日にここで寝そべってはいけませんよ。日射病になりますから」
俺がこの先生に心を許しているのは、多分間違いない。
それでもこのお節介には少しだけ辟易していた。
「大丈夫です」
「……ふふ」
先生は穏やかに笑う。
296 :家族計画SS『かげぼうし』-Epilogue :04/09/18 18:15:10 ID:YIs/4DHU「沢村君は、夏休みに何か予定はあるんですか?」
「いえ、何もないです」
「そうですか」
同情も揶揄もない。ただ優しいだけの旋律が耳に心地いい。
「……暑いですね」
そう呟きながら、先生は遥か上空を見上げた。
「沢村君、夏は好きですか?」
「え……?」
「私は日光と相性が悪いようでして、子供の頃はよく日射病で倒れたりしました。
だから夏は嫌いでした」
まるで語り部のようにそう呟く。俺はそれをじっと聞いていた。
「けれど、それは間違いでした。そう気付かせてくれたのは、これです」
その言葉と同時に、俺の顔に何かが被さる。
顔よりもちょっと大きいそれを手に取って視界に納めてみると――――麦藁帽子だった。
297 :家族計画SS『かげぼうし』-Epilogue :04/09/18 18:16:47 ID:YIs/4DHU「沢村君。嫌いなものと言うのは、ほんの些細な何かを得るだけで
案外そうでもなくなるものです。私にとっての、その帽子のように」
「……」
帽子を見る。少し古そうだが汚れたりはしていない。大事に使っていたのだろう。
「それは貴方に差し上げます。日射病予防に強い味方ですよ。私が保証します」
「……麦藁帽子を被るような歳でもないですけど」
「ふふ……そうですか」
先生はいつもそうであるように、優しげに微笑んでいた。
「では、ごきげんよう」
「あっ」
踵を返した先生を呼び止める。
「あの、帽子……ありがとうございます」
先生は微笑みのまま微かに頷いて、屋上を後にした。
それを見送りながら、俺は貰った帽子をかぶってみる。
暖かい感触が頭を覆い、暖かな気持ちになった。
足元では俺の影法師がほんの少しだけ伸びている。
それはきっと――――先生がくれた、未来への架け橋。
298 :家族計画SS『かげぼうし』-Epilogue :04/09/18 18:17:27 ID:YIs/4DHU「ありがとう……ございました」
果たして言葉は何処まで届くのだろうか。
先生がくれた未来まで辿り付いて欲しい。そう願いながら目を瞑った。
夏。燕が飛び交い、水飛沫が舞い、子供達が笑い合う季節。
青は境界線の下で疎らに散らばり、帰り道を走る子供達に躍動する未来を恵む。
耳を澄ませばそこに蝉時雨の儚さと夏風の清爽さ。何もかもが刹那の中に在った。
決して色褪せない景色と共に。
先生。
今日も暑くなりそうです――――
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