髪を切った日

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 ピンポーン。

 聞き慣れたチャイムの音が、扉越しに聞こえてくる。もう何度目だろう、こうやって

孝之の部屋に入るのは。もう……覚えられない程の回数。それは既に日常的な出来事

だから。でも、今日は……今日だけはいつもとは違う。

「はい?」

「あっ……わたし」

「ああ、今開ける」

 そう言って玄関の扉に近づいてくる足音。私の好きな足音。孝之の足音。

 ガチャ。扉のノブがまわる。そして開かれたドア。孝之の顔がみえる。予想通り、

ビックリしたようで口が半開きのままだ。ただ黙って私の方を見ている。

「もう、何か言いなさいよ。似合ってるよとか……きれいになったよとかさぁ」

 わざと怒った振りをして孝之に言う。それに対して返される孝之の言葉をちょっと

心配しながら待つ。………似合ってないって言われたらどうしよう。そんな心配が

あったから、私はわざと語気を強めて言ったんだ。

「おい水月、そんなに髪ばっさり切っちまって風邪ひかないか?」

「……は!?」

 あまりと言えばあまりな孝之の言葉に愕然とする。本当にズッコケそうになるのを

初めて体験させてもらったわ。そして、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。

「もう、孝之のバカ!! せっかく御飯作りに来てあげたけど、もう帰るわ!!」

 ………まったくこのバカ! 私は階段の方へと早足で歩き出す。後の方から

バタバタと騒がしい足音が近づいてくる。一応、引き留めてくれるんだ。そう思って

ると私の腕を孝之が掴んで振り向かせる。

「………水月」

 孝之は心配そうに私の名前を呼んだ。でもきっと何で怒ってるかなんて気づいて

ないんだろうな。孝之は白陵の頃からそんなやつだということを思い出す。前だって

私に言ったこと忘れてた。……ショートが似合うんじゃないかって言ったこと。

「なぁゴメンってば、水月」

 そう言って孝之は私のことをギュッと抱きしめた。……ずるい。こうされると余程の

事がない限り私は孝之を許してしまう。孝之はそれを知っている。

「もう、近所の人に見れちゃうよ。ったくしょうがないわねぇ、許してあげるから……

 部屋に入ろう」

 孝之の温もりは心地良いい。いつまでもこうしていたい………。その思いに後ろ髪を

ひかれつつ私は孝之と部屋に戻った。

 今の孝之に料理を作ってあげるのは嬉しい。最初に料理を作ってあげてた頃、それは

単なる栄養補給の意味しか持たなかった。毎日遙の病院に通って、ともすれば3食抜き

なんてあたりまえで、栄養失調で倒れるかもしれない。自分から進んで御飯を食べよう

とはしなかった。だから、私の料理に美味しいと言ってくれたり、文句を言ったりして

くれる今が嬉しい。時々腹が立つこともあるけどねぇ。

 私が料理を作ってる時や一緒に御飯を食べる最中も孝之はチラチラとこちらの方を

横目で伺っている。な〜んだ、あんな事言いながら結構気になってんのね。やっぱり

この髪のこと見てるんだぁ。

「ねえ……この髪似合わないかな? 前々から仕事の時とか邪魔だったんだよねぇ」

 御飯を食べ終わり二人で並んでテレビを見ている時、私はもう一度孝之に尋ねた。

「ああ似合ってると思う。けど、前の髪型のイメージが強くてさ。ちょっと別人

 みたいだぞ」

「そんなことない! ずっと私は私のままだよ」

 ちょっと悲しくなった私は、孝之の腕にしがみつく。そんな私を孝之はちょっと驚いた

目で見ていたが、ゆっくりと今日切ったばかりの髪を撫でてくれた。孝之を見ていた

目を閉じる。それに応じるかのように孝之は優しく唇を重ねてくれた。

 キスはもう何度も済ませた。だが……それから先がなかなか進まない。でも……

今日は覚悟を決めてきた。髪も切った。昔、孝之が言ってくれたショートが似合うって

言葉を信じて。いつまでも同じままは嫌だ。左手の薬指にはあの日以来、初めて

つけた孝之に貰った指輪がある。ゴメンね……遙。私は心の中で遙に一言謝った。

「ねえ、孝之。今日泊まっていっても良い?」

 女の子の方からこんな事言って、嫌われないかな? 私はちょっと不安になる。

そして、その後で恥ずかしさに顔が赤くなるのがわかった。私の言葉に孝之は

ちょっと驚いた様子だったが、返事の替わりにギュッと抱きしめ、そしてもう一度

キスをしてくれた。ただ、単純に嬉しかった。私のことを受け入れてくれるつもりの

ある孝之の態度が。

「じゃ、ちょっとシャワー浴びてくるね。いくら私の裸が見たいからって、あせって

 覗きにきたら……殺すわよ」

 これから先の事を考えると意味の無い脅し言葉。それは恥ずかしさを紛らわせる

だけの言葉でしかない。シャワーも本当は家で浴びてきた。十分すぎるほど体を

磨いてきた。それでも……初めてだしいろいろと気になる。

 その晩、私はいろいろなことを知った。素肌で感じたお互いの温もり。本当に緊張

している孝之の顔。そして、こんな私を包み込んでくれた優しさ。覚悟をしていた

破瓜の痛みはそれ程ではなかった。あの夏の引き裂かれそうになった心の痛みに

比べれば……十分我慢できた。それでもちょっと、涙がこぼれた。痛さ半分、嬉しさ

半分ってところ。それを見た孝之の心配振りは、今思い出すと笑い出しそうになるわ。

でもそんなにも心配してくれてると知って嬉しくもある。

 けれでも良いことばかりではなかった。孝之の遙への思い……未だ忘れていない

その思いも知ってしまった。夢にうなされ、孝之は何度も遙の名前を口にした。

 何もこんな日にそんな夢見なくてもいいじゃない。少し悲しい気分になって泣いて

しまう。でも、それは仕方のないことかもしれない。私は遙の事故のことで一杯だった

孝之のことを見ていられなかった。あんなにも遙のことを思っていた孝之にショックを

受けながらも……それでもなんとか元気づけたかった。もし……あの日、私が孝之に

この指輪をねだらなかったらあの事故は起きなかったのだから。

 私は多くの人を裏切ってしまった。なにより……茜と遙この二人を裏切ったという

事が辛い。でも……それでも私は孝之に立ち直って欲しかった。だから、他のこと

なんてどうでも良かったんだ。ただ、孝之が元気になってくれれば!

 だから……孝之が私と付き合ってくれた事は嬉しかった。孝之が私と付き合うことで

遙の事故の辛さを忘れてくれるなら………。でもこれは欺瞞かもしれない。そんな

ことはわかってる。それでも孝之の辛い思いを癒してあげたいんだよ。

 ………遙、貴方が目を覚まさなかったから孝之こんなに傷ついてきたんだよ。

だから……ごめんなさい……遙。例え他の人全てを裏切るかたちになっても………

例え貴方を裏切っているってわかっていても、私は孝之と付き合っていたい。もう、

私には孝之しかないから………。孝之しかないんだよ。

「ごめんなさい……遙」

 今度は言葉に出して謝る。隣には孝之が眠っている。でも、その温もりに触れる事は、

今日は躊躇われた。だから触れ合わないよう体を少し離して眠る。漸くここまで来れ

たんだ。時間は……まだこれからも進んでいく。だから今日はこれでいいよ。

 朝日がカーテンの間から射し込む。眩しそうに孝之が目を覚ます。

「おはよう、孝之」

 私は、精一杯の笑顔で孝之に言った。

(終わり)

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